高田繁の自宅は大阪市住之江区で現在は家庭菜園を楽しむ野菜中心の食生活

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高田繁さんの自宅での現在の暮らしについて、気になっている方は多いのではないでしょうか。

結論から言うと、高田繁さんは現在、自宅の家庭菜園で育てた野菜を食べる穏やかな生活を送っています。

読売ジャイアンツでV9時代を支え、日本ハムやヤクルトの監督、そして横浜DeNAベイスターズの初代GMまで務めた高田さんですが、現役・GM時代を離れた今の暮らしぶりは意外と知られていません。

さらに終活をきっかけに評伝「後ろ姿のない男」の取材に応じたことで、これまで語らなかった本音も明らかになってきました。

この記事では高田繁さんの自宅での現在の様子を、妻・保子さんや息子・孫との関わりも含めて整理していきますね。

記事のポイント

①:自宅は家庭菜園を楽しむ穏やかな暮らし

②:ルーツは鹿児島で育ちは大阪住之江区

③:ヤクルト監督辞任は65歳引退構想が理由

④:現在はDeNAフェローとして球団を支える

高田繁の自宅と原点|大阪市住之江区で育った少年時代

  • 鹿児島にルーツを持つ薩摩隼人|大阪で過ごした少年時代
  • 浪商時代も変わらなかった住之江区の自宅暮らし
  • 明治大学進学で初めて自宅を離れた寮生活
  • 巨人入団1年目の新人王|東京で構えた新婚生活
  • V9戦士の年俸事情|巨人時代の懐具合
  • 日本ハムとヤクルト時代の転居先

鹿児島にルーツを持つ薩摩隼人|大阪で過ごした少年時代

高田繁さんの自宅や生い立ちについて調べると、まず気になるのがそのルーツですよね。

結論から言うと、高田繁さんは鹿児島にルーツを持つ薩摩隼人で、実際に育ったのは大阪市住之江区です。

現役時代から「後ろ姿のない男」と評されるほど私生活を語らなかった高田さんですが、出自に関する情報は本人のインタビューにも残っています。

ここでは高田さんの基本プロフィールと、自宅のルーツとも言える出身地の情報を整理していきますね。

高田繁の基本プロフィール

下記の表は、高田繁さんの基本情報をまとめたものです。

項目 内容
氏名 高田繁(たかだ しげる)
生年月日 1945年7月24日
2026年11月05日現在の年齢 81歳
出身地 大阪府大阪市住之江区(ルーツは鹿児島)
身長・体重 173cm・70kg
投打 右投右打
学歴 加賀谷中学校・浪商高校・明治大学
経歴 読売ジャイアンツ・日本ハム・ヤクルト・横浜DeNA

こうして見ると、大阪育ちでありながらルーツは鹿児島という、少し意外な背景を持っていることが分かりますね。

鹿児島にルーツを持つ薩摩隼人としての出自

高田さんは自身のことを振り返るインタビューで、はっきりとこう語っています。

「生まれは鹿児島の薩摩隼人。育ちは大阪。」という表現です。

この一言には、高田さんの骨太なキャラクターのルーツが詰まっているように感じます。

薩摩隼人という言葉は、鹿児島に古くから伝わる、気骨があり頑固な気質を指す表現としてよく使われますよね。

現役時代の高田さんは浪商のケンカ野球で鍛えられ、巨人でも一本気な性格で知られていました。

そして指導者になってからも、年上のコーチに対しても堂々とした態度を崩さなかったエピソードが残っています。

こうした人物像は、鹿児島にルーツを持つ気質と、大阪で培われた負けん気の両方が影響しているのかもしれません。

ちなみに高田さんが鹿児島にルーツを持つという情報は、出生地としての鹿児島ではなく、家系としての意味合いが強いとみられます。

戸籍上の出身地は大阪府大阪市住之江区であり、実際の生活基盤はずっと大阪にあったことが分かっています。

大阪市住之江区で過ごした幼少期

では、実際の自宅・生活の基盤はどこにあったのでしょうか。

答えは大阪市住之江区です。

高田さんはこの住之江区で生まれ育ち、少年時代の大半をここで過ごしました。

住之江区は大阪市の南西部に位置し、現在は南港やニュートラムで知られるエリアですが、高田さんが育った昭和20年代後半から30年代は町工場と住宅が入り混じった下町でした。

学区の子どもたちが小学校から中学校までそのまま一緒に進学していく、顔なじみの濃い地域だったと伝えられています。

実際、高田さんは小学1年生のときに同じクラスになった女の子と、16年後に結婚することになります。

この話は後ほど家族の章で詳しく触れますが、住之江区という地域の結びつきの強さを表すエピソードとしても興味深いですよね。

派手さのない下町で育った経験が、のちの「地味だけど確実な仕事をする」という高田さんのスタイルにつながっているのかもしれません。

少年時代の自宅があった住之江区は、高田さんの人物像を知るうえで欠かせない土地と言えそうです。

野球人生のスタートとなった加賀谷中

住之江区での生活の中で、高田さんは野球と出会います。

進学したのは地元の加賀谷中学校でした。

評伝「後ろ姿のない男 高田繁と日本野球の70年」の著者・村瀬秀信さんは、高田さんの歩みを「1955年の加賀谷中」から始まる日本野球70年の変遷として描いています。

つまり、高田さんの自宅があった住之江区こそが、約70年に及ぶ野球人生の出発点だったわけです。

加賀谷中、浪商、明治大学、巨人、日本ハム、ヤクルト、横浜DeNAと、日本の野球史をそのまま一人で背負ってきたような経歴ですよね。

その長い道のりの一番最初の地点に、住之江区の自宅があったことになります。

中学時代の高田さんについては、のちに塀際の魔術師と呼ばれる守備の名手になる原点がこの時期にあったとも言われています。

野球に本格的に打ち込み始めたのも、この加賀谷中の時代からでした。

住之江区で過ごした少年時代が、高田さんの野球人生とその後の人物像を形作った原点と言えそうです。

浪商時代も変わらなかった住之江区の自宅暮らし

中学を卒業したあと、高田さんの生活拠点はどうなったのでしょうか。

結論から言うと、高校時代も自宅は住之江区のままで、名門・浪商高校に地元から通っていました。

明治大学や巨人時代とは違い、高校までは実家暮らしを続けていたことになりますね。

ここでは、浪商時代の高田さんの生活と、自宅から送り続けたというラブレターのエピソードを見ていきます。

名門・浪商に地元から通った高校時代

高田さんが進学した浪商高校は、当時の高校野球界を代表する名門でした。

生まれは鹿児島の薩摩隼人、育ちは大阪という高田さんは、この浪商のケンカ野球のなかで鍛えられていきます。

高田伝説のなかには「最も荒れていた時代の浪商で番を張っていた」「歴代でも一番恐ろしいのは高田」という話まで残っているほどです。

のちに天理高校への入学が決まっていた牛島和彦さんを、ひと睨みで浪商入学へ翻意させたという逸話も伝えられています。

もちろん評伝を書いた村瀬秀信さんの取材によれば、こうした伝説は本当のものとデタラメが入り混じっていたとされていますけどね。

とはいえ、相当な迫力をまとった高校生だったのは間違いなさそうです。

この高校時代、高田さんは住之江区の自宅から浪商に通い続けていたと考えられます。

派手な寮生活ではなく、地元の自宅を拠点にしながら甲子園を目指していたわけですね。

在籍中に成し遂げた甲子園全国制覇

浪商在籍中、高田さんは大きな結果を残しています。

1961年夏の第43回大会で、浪商は全国制覇を果たしました。

下記の表は、この大会での浪商の戦績をまとめたものです。

ラウンド 対戦相手 スコア
1回戦 浜松商(静岡) 1-0
2回戦 銚子商(千葉) 2-1
準々決勝 中京商(愛知) 14-0
準決勝 法政二(神奈川) 4-2
決勝 桐蔭(和歌山) 1-0で全国制覇

決勝を1点差で勝ち切るという、しびれる勝ち上がりですね。

エースの尾崎行雄さんは、この5試合すべてでマウンドに立っていたと伝えられています。

この全国制覇を、当時交際していた保子さんも地元で見ていたのだろうと考えられます。

住之江区の自宅から通う高校生が、夏の甲子園で頂点に立ったというのは、地域にとっても誇らしい出来事だったはずです。

自宅から送り続けたラブレターの日々

高校進学で、保子さんとの距離はさらに開いてしまいます。

高田さんは浪商高校、保子さんは大阪の四条畷高校へ、それぞれ別の学校に進んだからです。

学校が違えば顔を合わせる機会も激減しますよね。

そこで高田さんが選んだのが、自宅からラブレターを送り続けて交際をつなぎ止めるという作戦でした。

古い野球本には「高田はラブレターを送り続けて交際を繋げていた」とはっきり記されています。

ここ、かなり意外ですよね。

番長と呼ばれ、荒れた浪商で一目置かれていた高田さんが、自宅の部屋でせっせと手紙を書いていたわけです。

野球部の厳しい練習から帰った自宅で手紙を書いて、返事を待つ。

そんな高校3年間だったことになります。

高校時代に培われた我慢強さ

高田さんの野球スタイルを振り返ると、この時期に培われたものが透けて見えます。

現役時代の高田さんは2番打者として鳴らしました。

本人も「僕は2番が好きだった。制約がある中でいろいろ対応するのが面白かった」と振り返っています。

制約のなかで工夫するのが面白い、という感覚ですよね。

離ればなれになった相手との関係を、手紙という限られた手段でつなぎ止めたのも、まさに同じ発想なのかなと思います。

この我慢強さが、のちに外野の名手として6度のダイヤモンドグラブ賞を受賞する土台になったのでしょうね。

住之江区の自宅を拠点にしながら、野球と恋愛の両方に真剣に向き合っていた高校時代だったと言えそうです。

次は、その自宅を初めて離れることになる大学時代を見ていきましょう。

明治大学進学で初めて自宅を離れた寮生活

高校を卒業すると、高田さんの生活は大きく変わります。

結論から言うと、明治大学への進学で上京し、初めて住之江区の自宅を離れて寮生活を始めることになりました。

16年続いていた保子さんとの関係も、ここでさらに距離が開くことになりますね。

ここでは、自宅を離れた大学時代の高田さんの暮らしを見ていきます。

島岡御大の下での厳しい寮生活

高田さんが明治大学に在籍したのは1960年代半ばのことです。

当時の大学野球部は合宿所生活が基本で、自由に大阪の自宅へ帰れるような環境ではありませんでした。

しかも明治大学野球部は、島岡吉郎監督という伝説の指導者が率いるチームでした。

選手たちは「御大」と呼ばれた島岡監督の下で、相当に厳しい日々を送っていたと伝えられています。

住之江区の自宅でのんびり過ごしていた高校時代とは、まったく違う生活だったはずです。

親元を離れた寮生活は、高田さんにとって大きな転機になったのではないでしょうか。

それでも、この厳しい環境のなかで、高田さんは着実に実力をつけていきます。

星野仙一との1年間の同部屋生活

寮生活のなかで、高田さんには忘れられない同部屋の相手がいました。

それが、のちに中日や阪神で監督を務める星野仙一さんです。

高田さんは星野さんの1学年先輩でしたが、4年生は2年生と組むのが寮の普通のルールでした。

ところが、なぜか3年生でエースだった星野さんと高田さんが一緒の部屋になったのです。

部屋割りを決めていた御大が「星野さんを野放しにすると悪いことをする」と見ていたから、という理由だったそうです。

その星野さんは、島岡御大の部屋で緊張する場面でも、御大がトイレに行っている隙に押し入れを開けてカステラや葉巻をかすめていったという豪胆さを見せていたといいます。

高田さんは「冷や冷やしながら見ていた」と振り返っています。

自宅を離れた寮生活だからこそ生まれた、濃密な人間関係だったと言えそうですね。

神宮の華と呼ばれた六大学時代の実績

寮生活のなかで、高田さんの実績は文字通り破格のものになっていきます。

東京六大学リーグでは、一年生の秋季から7季連続でベストナインに選出されました。

通算127安打は、今も六大学野球の記録として残っています。

島岡学科の首席卒業と呼ばれ、神宮の華として絶大な人気を得た存在でした。

俊足巧打の外野手として六大学で名をとどろかせ、そのまま1967年のドラフトで巨人から1位指名を受けます。

自宅を離れて上京した4年間が、プロ入りという大きな結果につながったことになりますね。

大阪に残っていた保子さんにとっては、恋人が学生スターになっていく4年間だったはずです。

遠距離でも途切れなかった大阪の自宅との縁

東京で寮生活を送る一方、高田さんの実家である住之江区の自宅との縁は途切れませんでした。

大学時代、保子さんは大阪の伊藤忠商事に入社し、東京と大阪の遠距離交際が続いていたと伝えられています。

東京と大阪、しかも学生と社会人という組み合わせです。

それでも高田さんは諦めず、交際を続けたといいます。

中学3年で引っ越し、高校で別々、大学と社会人で東京と大阪というように、二人の交際は常に障害付きでした。

一緒にいられた期間のほうが短いくらいですよね。

それでも関係が続いたのは、お互いが相手を変えようとしなかったからに尽きるのだと思います。

この長い助走の末に、プロ入り1年目のオフ、ついに結婚というゴールが訪れることになります。

巨人入団1年目の新人王|東京で構えた新婚生活

大学を卒業した高田さんは、いよいよプロの世界へ進みます。

結論から言うと、1967年ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団し、1年目の1968年に新人王とシリーズMVPを獲得、そのオフに保子さんと結婚しました。

自宅を大阪から東京に完全に移すことになった、人生の大きな節目です。

ここでは、入団1年目の活躍と、結婚後の新生活について見ていきます。

V9の4年目に迎えた入団1年目

高田さんが巨人に入ったのは、V9の4年目にあたる1968年でした。

1年目の6月末からレギュラーに定着し、そのまま最優秀新人を受賞しています。

さらに阪急との日本シリーズでは全6試合に1番レフトで出場しました。

26打数10安打という活躍でMVPを獲得したと伝えられています。

高田さんが1番に座ったことで打線の並びが変わり、5番に下がった柴田勲さんが王貞治さんと並ぶシリーズ3本塁打を記録しました。

ルーキーがチームの骨格そのものを変えてしまったわけですね。

V9末期には1番柴田、2番高田という並びが定番になりました。

結婚前後の打撃成績

下記の表は、結婚前後にあたる巨人入団からの3年間の打撃成績です。

年度 試合 安打 本塁打 打点 打率
1968年 120 104 9 30 .301
1969年 120 136 12 46 .294
1970年 130 136 10 26 .262

結婚した1968年オフの直前が、打率3割を超えた最高のシーズンだったことになります。

いちばんいい形でプロポーズできたタイミングだったと言えそうですね。

発表のない静かな結婚と東京での新生活

気になるのが、結婚の発表のされ方です。

結論から言うと、記者会見や写真付きの発表は確認できません。

古い野球本に「高田が巨人に入団、そのオフに結婚している」と短く記されているだけなんですよね。

新人王を獲った年のオフですから、本来なら大きく扱われてもおかしくない話題でした。

それをあえて静かに済ませたのは、やはり高田さんの性格が出ているのだろうと思います。

結婚を機に、高田さんと保子さんの自宅は東京に構えられたとみられます。

大阪の住之江区で始まった二人の縁が、16年の時を経て東京の新居という形で一つになったわけです。

結婚後に歩んだ現役13年間

結婚後の高田さんは、巨人の主力としてV9の中心を担い続けました。

1975年オフに張本勲さんが加入するとサードへコンバートされますが、転向1年目でダイヤモンドグラブ賞を受賞しています。

外野でも内野でも守備の名手という、まさに塀際の魔術師の面目躍如ですね。

そして1980年、「捕球位置のイメージと20cmのずれがあったから」という理由で現役を引退しました。

ふつうの選手なら気づかないレベルの違和感で、自分からユニフォームを脱いだことになります。

保子さんはこの13年間を、東京の自宅で家庭を守りながら見届けたことになりますね。

通算では1512試合に出場し、1384安打139本塁打499打点、そして200盗塁という数字を残しました。

東京に構えた自宅から神宮や後楽園に通い続けた13年間だったわけです。

V9戦士の年俸事情|巨人時代の懐具合

華やかなV9巨人の主力というと、高収入を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

結論から言うと、当時の年俸は今の感覚からすると驚くほど控えめな金額で、高田さんの自宅暮らしも決して派手なものではなかったとみられます。

結婚相手も芸能人ではなく、地元で知り合った一般女性の保子さんでした。

ここでは、当時の懐事情と、それが自宅暮らしに与えた影響を見ていきますね。

1976年のV9戦士たちの年俸比較

下記の表は、1976年当時の巨人主力選手の年俸をまとめたものです。

選手名 年俸
柴田勲 1260万円
土井正三 1200万円
末次利光 920万円
高田繁 730万円

V9を戦った巨人の主力でも、年俸は驚くほど低く抑えられていた時代だったことが分かります。

スター選手といっても、生活感のある金額だったわけですね。

一般女性との結婚が自然だった時代背景

高田さんが結婚したのは1968年のオフで、まだ球界に芸能人婚のブームが来るずっと前の時代でした。

結婚相手も地元で知り合った保子さんのような一般女性というのが自然な流れだったわけです。

派手な発表も記者会見もなく、静かに家庭を築いたのだろうと想像できますね。

現在のプロ野球選手のような高額契約や豪邸暮らしとは、だいぶ違う生活感だったと言えそうです。

この時代背景を知ると、高田さんの自宅暮らしが地味で堅実なものだったことも、自然に理解できるのではないでしょうか。

引退後のキャリアと収入の広がり

現役時代は決して高額とは言えなかった高田さんですが、引退後はキャリアの幅を広げていきます。

NHKの野球解説者、日本ハムファイターズ監督、巨人ヘッドコーチ、巨人二軍監督、北海道日本ハムファイターズGM、東京ヤクルトスワローズ監督、日刊スポーツ評論家、テレビ北海道やGAORAの解説者など、実に多岐にわたる仕事を務めてきました。

1年も浪人することなく次の仕事に就いてきた、というのが本人の言葉です。

監督やGMという要職を長く務めたことで、現役時代とは違う形での収入基盤を築いていったとみられます。

自宅での暮らしぶりも、この指導者・フロント時代を通じて徐々に安定していったのではないでしょうか。

決して派手ではない暮らしぶりの一貫性

ここまでの経歴を振り返ると、高田さんの暮らしぶりには一貫した特徴が見えてきます。

現役時代も、指導者時代も、そして現在も、派手さを前面に出さない暮らし方を続けているという点です。

730万円という現役時代の年俸も、地味で堅実な家庭を築いたことも、現在の家庭菜園中心の暮らしも、根っこは同じ価値観でつながっているように感じます。

「後ろ姿のない男」というタイトルが示す通り、高田さんは私生活を派手に見せることを好まない人物なんですよね。

自宅での暮らしぶりを知れば知るほど、この一貫性が浮かび上がってくる気がします。

次は、指導者・GM時代に自宅をどう移してきたのかを見ていきましょう。

日本ハムとヤクルト時代の転居先

現役引退後、高田さんの生活拠点はどう変わっていったのでしょうか。

結論から言うと、日本ハムでは札幌、ヤクルトでは東京の神宮を拠点に、各地を転々としながら指導者・フロントの仕事を続けてきました。

自宅のある場所も、その時々の役職に合わせて移っていったとみられます。

ここでは、指導者・GMとしてのキャリアと、拠点の変遷を年表で整理していきますね。

監督・GMとしてのキャリア年表

以下の表で、高田さんの指導者・フロントとしての歩みを時系列に整理します。

時期 役職 球団・拠点
1968年〜1980年 選手 読売ジャイアンツ(東京)
1981年〜1984年 野球解説者 NHK(東京)
1985年〜1988年 監督 日本ハムファイターズ(東京)
1990年代 コーチ・二軍監督 読売ジャイアンツ(東京)
2005年〜2007年 GM 北海道日本ハムファイターズ(札幌)
2008年〜2010年 監督 東京ヤクルトスワローズ(東京)
2011年〜2018年 初代GM 横浜DeNAベイスターズ(横浜)
2019年〜現在 フェロー ディー・エヌ・エー

引き受けた球団は、日本ハムもヤクルトもいずれも前年最下位という弱いチームでした。

本人も、チームを変えなきゃいけない時期だったと振り返っています。

39歳で引き受けた日本ハム監督時代

日本ハムからオファーが来たのは、高田さんが39歳の時でした。

それまで巨人ひと筋で現役を終え、4年間NHKの解説者をやっていた高田さんのところに、何の縁もなかった日本ハムから監督就任の話が来たのです。

「考えてもいなかったよ」と本人も振り返っているように、まったく予想外のオファーでした。

コーチの経験もない人間がいきなり監督というのは、相当なプレッシャーだったはずです。

この時期、高田さんと保子さんの自宅も、東京を拠点にしながら日本ハムの本拠地に通う生活になったとみられます。

日本ハムの初代オーナー・大社義規さんは、負けが続いても「高田さん、大変だけど頑張ってくれよ」と常に激励してくれる人だったと高田さんは振り返っています。

現場にやさしいオーナーに支えられながら、4年間監督を務め上げました。

北海道移転後にGMとして戻った日本ハム

監督退任から20年後、高田さんは再び日本ハムに関わることになります。

今度はチームが北海道に移転した後のGMという立場でした。

2代目オーナーの大社啓二さんから、メジャーリーグにあったGM制度の導入を盛んに持ちかけられたのがきっかけです。

「知ってはいたけど、まさかそのオファーが自分に来るとは思わなかった」と高田さんは語っています。

トレイ・ヒルマン監督とのタッグにより、3年のうちにリーグ優勝を2回も果たすという結果を残しました。

この時期、高田さんの生活拠点は札幌にあったと考えられます。

東京で過ごした現役・解説者時代とは、まったく違う土地での生活だったはずです。

神宮を拠点にしたヤクルト監督時代

日本ハムGMを退任したあと、高田さんは東京ヤクルトスワローズの監督に就任します。

拠点は再び東京、神宮球場が本拠地のチームでした。

引き受けたのは、やはり前年最下位という厳しい状況のチームでした。

2008年から2010年まで指揮を執り、神宮球場に通う生活がしばらく続きます。

この神宮での日々が、のちに辞任の引き金にもなる出来事を生むことになるのですが、それは次の章で詳しく見ていきますね。

日本ハムの札幌、ヤクルトの東京と、高田さんの自宅の拠点は役職ごとに移り変わっていったことになります。

各地を転々としながらも、一貫して「チームを立て直す」仕事を任され続けたのが、高田さんの指導者人生の特徴と言えそうです。

高田繁の自宅での今の暮らし|家庭菜園と家族の時間

  • ヤクルト監督を辞めた本音と65歳の人生設計
  • 現在の暮らしぶり|自宅の家庭菜園で過ごす日々
  • 終活で語り始めた評伝「後ろ姿のない男」
  • DeNAフェローとして球団を見守る現在
  • 息子・高田進と育んだ野球一家の家庭
  • 孫・高田直人と3世代が集う正月の自宅

ヤクルト監督を辞めた本音と65歳の人生設計

高田さんのキャリアのなかで、唯一とも言える不本意な区切りがあります。

結論から言うと、それが2010年のヤクルト監督辞任で、65歳で全ての仕事から離れるという人生設計が背景にあったことが明かされています。

自宅での静かな暮らしを望んでいた本音が、この辞任劇にはっきりと表れているんですよね。

ここでは、辞任の経緯と、そこに込められた高田さんの本音を見ていきます。

借金19まで膨らんだ2010年5月の辞任

2010年、ヤクルトは借金19まで借金が膨らみ、5月末に高田さんは指揮を降りました。

その後、小川淳司監督代行が指揮を執って借金を返済し、チームは見違えるように浮上します。

高田さんは「え? 同じチームかよ?」と思うくらい良くなりましたよね、と率直に振り返っています。

そして今後について聞かれると、「もう野球の仕事はいいやと思っているんですよ」と答えました。

この時点で、ユニフォームを脱ぐ覚悟は固まっていたことになります。

結果を出せなかった悔しさと、ある種の区切りへの納得が同時にあったのではないでしょうか。

65歳で全ての仕事から離れるという理想

辞任のインタビューで、高田さんは私生活の理想も語っています。

自分の人生設計として65という節目で、すべての仕事から離れて何もしないで暮らすのが理想だったと振り返っているんです。

勝負の世界に身を置くのは面白いけれど、この年齢になると体力が持たない、とも述べています。

そして、いずれにしても今年いっぱいでユニホームは脱ぐつもりだったと続けました。

保子さんと静かに過ごす老後を、はっきり思い描いていたということですね。

結果的にはその後DeNAのGMに就任し、思い描いた引退はかなり先延ばしになったわけですが、この時点での本音は紛れもなく「自宅でゆっくり過ごす暮らし」だったわけです。

子どものヤジがこたえたという本音

辞任の背景として、高田さんは意外な理由も明かしています。

神宮球場では試合後、グラウンドの中を通らないとクラブハウスに帰れません。

負けが込んだ時期は、その道のりで厳しいヤジを浴び続けたそうです。

高田さんは「カチンとくるのは我慢できますよ。けど、僕がつらかったのは子どもにヤジられたこと」と語っています。

おそらく親がやらせているのだろう、と前置きしたうえでの言葉です。

こういう商売はファンあってのものだし、特に子どもには夢を与える職業だから、というのが高田さんの考えでした。

家庭を持ち、息子を育ててきた人だからこその感覚なのかなと思います。

先延ばしになった理想の引退生活

65歳で全てを離れたいという理想を語った高田さんですが、実際の人生はそう単純には進みませんでした。

ヤクルト退任からほどなくして、横浜DeNAベイスターズから声がかかったのです。

親会社が変わったDeNAベイスターズから三顧の礼で迎えられ、チーム作りを任されるGMに就任しました。

一度は自宅でゆっくり過ごす生活を思い描いていたのに、また新しい球団の立て直しを任されたわけです。

この決断には、野球への誠実さを貫いてきた高田さんらしい一面が表れているように感じます。

結局、理想の「何もしない暮らし」が実現するのは、もう少し先のことになりました。

次の章では、そのDeNA時代を経て、ついに迎えた現在の自宅での暮らしぶりを見ていきますね。

現在の暮らしぶり|自宅の家庭菜園で過ごす日々

ここが、多くの方がいちばん知りたいところですよね。

結論から言うと、高田さんは現在、自宅の家庭菜園で育てた野菜を食べる、穏やかな生活を送っています。

勝負の世界から一歩引いて、土をいじる時間を持つようになったわけです。

ここでは、現在の自宅での暮らしぶりを、分かっている範囲で整理していきますね。

家で育てた野菜ばかり食べる生活

ヤクルト監督の辞任後、高田さんの体には変化が表れました。

取材時の様子として、「監督を離れてからは家で育てた野菜ばかり食べているから痩せたよ」という言葉が紹介されています。

「家で育てた野菜」という表現がポイントですよね。

勝負の世界から一歩引いて、自宅で土をいじる時間を持つようになったわけです。

現役時代から指導者・GM時代まで、ずっと勝負の世界に身を置いてきた高田さんにとって、家庭菜園は新しい生活スタイルだったのではないでしょうか。

結果を求め続けるプロの世界と、野菜の成長をゆっくり待つ家庭菜園とは、まったく違う時間の流れですよね。

その変化を楽しんでいる様子が、この一言からも伝わってきます。

半世紀以上を共にした保子さんとの食卓

その家庭菜園の食卓を一緒に囲んでいるのが、小学1年から縁の続く妻の保子さんです。

保子さんというお名前は分かっていますが、顔写真は確認できていません。

それでも、半世紀以上を共に過ごしてきた夫婦であることは間違いありませんね。

1968年の結婚から数えても、すでに50年を超える歳月が流れています。

現役13年、指導者・GM時代の30年以上を支え続けてきた保子さんが、今は自宅の食卓で一緒に野菜を食べているわけです。

その積み重ねが、この暮らしぶりからじんわり伝わってきませんか。

派手な演出のない、地に足のついた老後の過ごし方だと感じます。

勝負の世界から一歩引いた今の時間の使い方

現役時代、そして指導者・GM時代を通じて、高田さんは1年も浪人することなく次の仕事に就いてきました。

加賀谷中から浪商、明治、巨人、日本ハム、ヤクルト、DeNAと、70年近く野球の第一線に身を置き続けてきたわけです。

その高田さんが、ようやく自宅でゆっくり過ごす時間を持てるようになったのが現在の暮らしと言えそうです。

家庭菜園で土をいじり、育てた野菜を食べるという生活は、まさに65歳のときに語っていた理想に近い形なのかもしれません。

遠回りはしましたが、結果的に理想の暮らしに近づいているとも言えますね。

ここ、気になるポイントだと思うので、新しい情報があれば今後もアップデートしていきます。

派手さのない暮らしぶりに表れる人物像

高田さんの現在の暮らしぶりを見ていくと、現役時代から変わらない一貫性が見えてきます。

730万円という堅実な年俸で家庭を築いた現役時代、静かに結婚を済ませた新人王の年、そして今の家庭菜園中心の生活。

どれも派手さを避け、地道に積み重ねるという高田さんらしさが表れています。

「後ろ姿のない男」という評伝のタイトルが示す通り、私生活を大きく見せることを好まない人物なんですよね。

自宅での暮らしぶりを知れば知るほど、この人物像に説得力が増していく気がします。

今後も、この穏やかな暮らしが続いていくことが期待されますね。

終活で語り始めた評伝「後ろ姿のない男」

私生活をほとんど語らなかった高田さんに、大きな転機が訪れます。

結論から言うと、終活を始めたことがきっかけで、評伝「後ろ姿のない男 高田繁と日本野球の70年」の取材に応じることになりました。

自宅での静かな日々のなかで、ようやく重い口を開いたということになりますね。

ここでは、評伝が生まれた経緯と、そこに込められた意味を見ていきます。

「これから話すことは俺の遺言だ」という一言

後ろを振り返らなかった高田さんに、大きな転機が訪れます。

終活を始めたことです。

そして取材に訪れたノンフィクションライターの村瀬秀信さんに向かって、「これから話すことは俺の遺言だ」と語り始めました。

これまで見せてこなかった後ろ姿を、初めて見せようとしてくれたわけですね。

村瀬さんは、墓場にまで持って行かなければいけない約束事を絶妙に交わしながら、歴史の真実を話してくれたと記しています。

自宅でのインタビューを含め、約3年にわたって取材が続けられたとみられます。

「後ろ姿のない男」というタイトルの由来

評伝のタイトルは、なぜ「後ろ姿のない男」になったのでしょうか。

元報知新聞記者の山下重定さんと、当時の巨人軍コーチだった国松彰さんのやり取りのなかで、高田さんは「いわば“後ろ姿のない男”ですから」と評されました。

さらに村瀬さんが新聞社の取材で聞いた話として、「V9時代の各選手に大概仲のいい記者が何人かいるのに、高田繁だけは誰もいない」という証言も紹介されています。

記者と距離を置き、私生活をいっさい切り売りしなかった人なんですよね。

村瀬さん自身も「それにしても高田繁ほど取材のしにくい男はいない」と率直に記しています。

取材を始めた当初、村瀬さんは高田さんに対して「怖い人、冷たい人」という印象を持っていたと明かしています。

自宅での暮らしぶりがほとんど伝わってこなかったのも、こうした人物像が背景にあるのだと思います。

2023年から3年間の取材を経た刊行

評伝の取材が始まったのは2023年のことです。

月に一度、高田さんと話を聞く形で約3年間の取材が続けられました。

そして最後は怒涛の執筆を重ね、2026年8月27日に発売を迎えることになります。

加賀谷中から浪商、明治、巨人、日本ハム、ヤクルト、DeNAと、日本野球70年の変遷を一人の人生で描き切った内容です。

著者の村瀬さんは「まさか自分が巨人のスターだった高田繁の本を書くことになるなんて思ってもいませんでした」と振り返っています。

それでも月に一度の取材を重ねるうちに、徐々に本音を見せてくれるようになったそうです。

評伝が示す高田家族像のいま

この評伝は、高田さんの家族像を知るうえでも参考になる1冊になっています。

村瀬さんは書き終えたあとも、何かに追われるような虚脱感に襲われていると明かしていました。

約70年という長い野球人生を、一人の著者が丁寧に描き切った結果だと言えそうです。

保子さんとの暮らしについて、どこまで取材で語られたのかは公表されていません。

それでも、高田さんが長年にわたって自分の過去を多く語らなかった姿勢が、終活という形で変わっていったことは確かです。

気になる人は、公式の書籍情報をチェックしてみるのがおすすめですよ。

自宅での静かな日々が、この1冊という形で後世に残されたことになりますね。

DeNAフェローとして球団を見守る現在

GM退任後、高田さんはどんな立場で野球と関わっているのでしょうか。

結論から言うと、2019年から親会社ディー・エヌ・エーのフェローという立場で、現在も球団を見守り続けています。

完全に野球から離れたわけではなく、自宅での生活と球団への関わりを両立させている形ですね。

ここでは、GM退任からフェロー就任までの経緯を見ていきます。

2018年いっぱいで退いた初代GM

高田さんは2011年12月、親会社が変わったDeNAベイスターズから三顧の礼で迎えられ、チーム作りを任されるGMに就任しました。

一線を退いていたところからの復帰で、焼け野原の中から7年間かけてチームの土台をつくりあげたと評されています。

そして2018年いっぱいでGMを退任しました。

御年78歳を迎えてのことです。

第一線から退いて早5年、という表現がインタビューでも使われていました。

長年のフロント生活から、ようやく一区切りをつけた形になります。

「誰が辞めるって言ったんだ」という啖呵

GM退任の報道が出たとき、高田さんは意外な言葉を残しています。

「誰が辞めるって言ったんだ! あと10年はやるぞ! おれはしつこいんだからな!」という啖呵です。

結果的にはGMを退いたわけですが、この言葉には野球への未練というより、最後まで前向きに仕事に向き合う姿勢が表れているように感じます。

65歳で全てを離れたいと語っていた人が、70代後半になっても「あと10年」と口にする。

この矛盾しているようで一貫している部分が、高田さんの人間らしさなのかもしれません。

自宅でゆっくり過ごしたい気持ちと、野球への情熱は、どちらも本音だったのだろうと思います。

管理職にアドバイスするフェローという役職

GM退任後、高田さんはディー・エヌ・エーのフェローに就任しました。

これは、管理職や経営陣にアドバイスをする役職です。

現場の最前線に立つわけではありませんが、球団の運営に関わる立場は維持しているわけですね。

自宅での暮らしを中心にしながら、必要なときに球団へ助言をする。

完全引退でも現場復帰でもない、ちょうど中間のような立場と言えそうです。

これもまた、65歳の理想と、70代後半でも野球を続けたい気持ちの、ちょうどいい折り合いだったのかもしれません。

オーナーとの対談にも応じる発信の継続

フェロー就任後も、高田さんの発信の機会は続いています。

球団オーナーの南場智子さんとの対談が公開されるなど、球団の広報活動にも関わってきました。

完全に裏方へ回るのではなく、必要な場面では表に出てくるというスタンスです。

保子さんと自宅で穏やかに過ごしながら、野球からは完全に離れないという距離感なんですよね。

日本ハムの50周年セレモニーでセレモニーピッチを務めたのも、この発信の一環と言えそうです。

キャッチャーに日本ハムOBの三沢今朝治さん、バッターボックスには新庄剛志監督という粋な人選で、2024年7月2日にエスコンフィールドで行われました。

今後も高田さんの言葉が、球界に向けて発せられることが期待されますね。

息子・高田進と育んだ野球一家の家庭

高田さんと保子さんの自宅には、息子もいます。

結論から言うと、息子の名前は高田進さんで、明治大学から東京ガスで内野手としてプレーした経歴を持っています。

父と同じ明大、そして同じ野球の道を歩んだことになりますね。

ここでは、息子・進さんの歩みと、野球一家としての自宅の空気を見ていきます。

息子・高田進の基本情報

下記の表は、報道から確認できる進さんの情報です。

項目 内容
氏名 高田進
続柄 高田繁と保子さんの息子
2026年11月05日現在の年齢 約55歳
出身大学 明治大学
ポジション 内野手
社会人野球 東京ガス
現役引退 全府中野球倶楽部
子供 高田直人(明治大学内野手)

2023年5月の報道時点で51という年齢が紹介されていたため、生まれは1971年か1972年ごろと考えられます。

つまり高田さんがV9の主力として全盛期を迎えていた時期に、自宅に息子が誕生したことになりますね。

父と同じ明治大学へ進んだ理由

進さんが選んだ大学は、父と同じ明治大学でした。

高田さんは明大野球部の金看板と呼ばれ、六大学で7度のベストナインに輝いた存在です。

その息子が同じ紫紺のユニフォームを着るというのは、相当なプレッシャーだったはずです。

それでも進さんは内野手として明大でプレーし、卒業後は東京ガスへ進みました。

東京ガスは社会人野球を代表する強豪チームのひとつです。

父の名前に頼らず、自分の力で高いレベルの野球を続けたということですね。

自宅では、父と同じ道を選んだ息子の挑戦を、両親がどんな思いで見ていたのか気になるところです。

全府中野球倶楽部で迎えた引退

進さんの現役生活は、東京ガスのあとも続きました。

最後にプレーしたのは全府中野球倶楽部というクラブチームです。

この引退の場面について、息子の直人さんが印象的な証言を残しています。

「父が全府中野球倶楽部で現役を引退するときも、球場に行っていた記憶がある」というものです。

家族そろって球場に足を運ぶのが当たり前の環境だったわけですね。

保子さんにとっては、夫の現役13年に続いて息子の現役生活まで見守ったことになります。

野球一家の母として過ごした時間は、相当な長さですよね。

野球が日常にあった高田家の自宅の空気

高田家の家庭環境は、孫の言葉からもよく分かります。

直人さんは「野球を始めるきっかけなんて覚えていないくらい、野球が日常にあった」と語っています。

ボールを投げている3歳ごろのホームビデオが自宅に残っているそうです。

祖父は巨人V9の立役者、父は社会人野球の内野手という家ですから、そうなりますよね。

この環境をつくり支えたのが、表に出る機会の少ない保子さんだったことになります。

高田さんは現役時代、塀際の魔術師と呼ばれた守備の名手でした。

その野球観が息子へ、そして孫へと受け継がれていったのだろうと思います。

現役13年、指導者・GM時代の30年以上という長いキャリアのなかで、高田さんが自宅に帰って息子と野球の話をする時間は、決して多くはなかったかもしれません。

それでも進さんが同じ明治大学、同じ内野というポジションを選んだ事実が、父子の間にあった無言の影響を物語っているように感じます。

野球一家という言葉がしっくりくる自宅の空気は、保子さんの存在があってこそ保たれてきたのではないでしょうか。

孫・高田直人と3世代が集う正月の自宅

高田さんと保子さんには、孫もいます。

結論から言うと、孫の高田直人さんは祖父・父に続いて明治大学野球部でプレーした3代目で、年末年始には自宅に3世代が集まる習慣があります。

親子3代で同じ大学の同じユニフォームを着るというのは、極めて珍しい話ですよね。

ここでは、孫・直人さんの情報と、自宅に集う3世代の様子を見ていきます。

孫・高田直人のプロフィール

下記の表は、報道で公表されている直人さんの基本情報です。

項目 内容
氏名 高田直人(たかだ・なおと)
生年月日 2002年4月7日
2026年11月05日現在の年齢 24歳
出身地 埼玉県朝霞市
野球歴 朝霞リトル・明大中野中・明大中野高・明治大学
ポジション 内野手
身長・体重 178cm・82kg
投打 右投げ左打ち

打撃で参考にしている選手は、ヤクルトの村上宗隆さんとレッドソックスの吉田正尚さんだそうです。

祖父の繁さんは俊足巧打のタイプでしたが、孫は長距離砲を手本にしているのが面白いところですね。

高田家3代の明大系譜

以下の表で、3世代の歩みを並べて整理してみます。

世代 人物 明治大学での立場
1代目 高田繁 六大学でベストナイン7度の金看板
2代目 高田進 内野手としてプレー
3代目 高田直人 内野手としてプレー

日刊スポーツはこの一家を東京六大学100年物語の第1回として取り上げました。

東京六大学連盟が2025年に創設100周年を迎えたタイミングでの企画だったそうです。

保子さんからすれば、夫・息子・孫の3代をすべて神宮で見守ってきたことになりますね。

年末年始に自宅に集まる3世代の会話

高田家の家族関係がよく分かるエピソードがあります。

年末年始には、3世代が自宅に一堂に集まるのだそうです。

そして共通の話題は、やっぱり野球でした。

直人さんは祖父からかけられた言葉をこう明かしています。

「おじいちゃんからは『今年1年が勝負の年だよ』と。絶対、今年は野球に集中してリーグ戦に出られるように、と言われました」というものです。

孫にも容赦のない、プロの視点からの言葉ですよね。

その食卓を用意していたのが保子さんだったと考えると、なんだか情景が浮かんできます。

祖父に似ていると評された孫の素顔

直人さんについては、見た目の話題も報じられています。

日刊スポーツは56年前の1967年の高田繁さんの写真と並べて紹介し、「凜とした顔立ちが目立つ。雰囲気が似ていますね」と伝えました。

1967年は高田さんがドラフト1位で巨人に指名された年です。

つまり、妻と結婚する直前の高田さんの顔と、孫の顔が重なるということになりますね。

好きな食べ物はすし、趣味は読書だそうで、プロの世界に生きた祖父とはまた違う一面も見えます。

大学野球生活が後半に差しかかった直人さんは、まずはリーグ戦に出ることが第1目標で、1本でも多くヒットを打ちたいと語っていました。

祖父の血を受け継いだ3代目の活躍が、自宅で見守る高田さん夫婦にとっても楽しみな時間になっているはずです。

高田繁の自宅と暮らしのまとめ

  • 高田繁の自宅での現在は家庭菜園を楽しむ穏やかな暮らしだ
  • 監督を離れたあとは野菜中心の食生活で体が絞られたという
  • 出身地は大阪市住之江区で幼少期をそこで過ごしている
  • ルーツは鹿児島の薩摩隼人で育ちは大阪府大阪市である
  • 浪商高校時代は自宅から通いながら甲子園制覇を経験した
  • 明治大学への進学で初めて自宅を離れて寮生活を送った
  • 1967年ドラフト1位で読売ジャイアンツへ入団している
  • 新人王を獲得した1968年のオフに保子さんと結婚した
  • 1976年の年俸は730万円で決して高額ではなかった
  • 日本ハムの監督・GM時代には札幌にも拠点を構えている
  • 横浜DeNAベイスターズでは初代GMを8年近く務めた
  • ヤクルト監督辞任は65歳引退の人生設計が理由だった
  • 終活を機に評伝「後ろ姿のない男」の取材に応じている
  • 現在はDeNAフェローとして球団に関わり続けている
  • 息子・孫と3世代そろって正月に自宅へ集まる習慣がある

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